10年前の今日
私は当時勤めていた工務店で
社内打ち合わせをしていた
緊急速報で大きな地震があったことを知り
テレビをつけると
もう打ち合わせを続けることは
できなくなった
私は2月22日の
ニュージーランド地震で
大きな被害があった
クライストチャーチに
ボランティアに行こうと
現地の設計事務所にコンタクトを
取っていた
しかし、3.11の後
You should think about your country
自分の国のことを考えろ
と返事がきた
2011年9月
私は仙台から東京まで
レンタカーの旅に出た
そこにはテレビでは
わからない独特の臭いがあり
建築の無力さを痛感
福島に入り
原発事故による通行止めで
飯舘村など山間部に迂回した
建物は壊れていない
しかし、人がいる気配もなく
電気もついていない
明かりはたまにすれ違う
パトカーの赤色灯だけ
そこで私は
建築は津波には無力かも
しれないが
エネルギーをつくる街が
電気がつかなくなる
住めなくなる
という不幸は建築の力で
変えることができるのではないかと考え
自分の前に道が生まれた
高ぶる気持ちのまま
広島に戻り
勤めていた会社を変えようと試みるが
うまくいかない
どうしても
省エネの普及により
社会を変えたいという思いを捨てれず
気がつけば独立を決意
そのあとは
独立することが必然だったかのように
さまざまな人と出会い
また省エネの大きなブームが生まれ
私の背中を押してくれた
しかし徐々に省エネが
ビジネスの商品として
扱われはじめた
太陽光発電がどれだけ乗るかを
競うような
隣家の日照など気にしない
片流れの大きな屋根の
建築が増えた
こんな利己的な考えの建築が
未来に残すべきものなのかという
疑念が生まれ
本当に良い建築とは
どういうものなのかを
学ぶために
大学院に進んだ
私は大学院で
意匠、温熱、構造、耐久などの
中庸点を求めて入学した
しかしある日
私の担当教授である
堀部安嗣先生に
「そんなものはない」
と一蹴された
「温熱が入り口であろうが
意匠が入り口であろうが
良いものを求め続け
時計のように進み続けるしかない」
と言われた
この言葉に
私はなぜか涙があふれた
妥協を求めるのではなく
よりよくしていくことを
諦めないことが
本当に未来に残すべきものだと
私は学びを得た
3.11から10年を迎えた
今日このときも
残念ながら
エネルギーをたくさん消費する
建物が建てられている
どんな建物でも
建てるのは自由だという
意見があることも
もちろん知っているが
暗闇の福島を走った
私はその意見にうなずくことは
決してできない
また省エネを絶対正義のように
かざして
利己的な住まいを追求することも
決してその行為は正義でないことを
私は知っていいる
今からも迷いながら
進むと思うが
上から差す光を頼りに
廻りながらも上がっていこうと
今日新たに決意する
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